ぼくらの一橋戦争

私大付属校から外部受験をしようとする高校2年生のありのままの記録

20.12.07(月) 「やらない」から「やる」へ

 昨日寝る前に、こんなことを考えていました。(読み飛ばしてください)

 

 これまでつらいことを味わった人は、まだ、もっと、つらいことを味わうことができます。求めるものへ挑戦して、その過程で味わった苦しみは、必ず深みのある面白さになる。そこへの文脈を作らなくてはなりません。「面白い」と「つらい」。両方を自分の人生のキャパシティーの限界まで味わえられたら、きっと将来面白い大人になれる。最高の高校生活が手に入る。そう信じて、前衛的につらさを受け入れて面白さを受け入れて理想を目指そうと思います。その過程で物語を作り続けることで、面白いものを手に入れることができると思いたいです。そんな経験、思い出せませんが。

 

 確かにそんな気はしますが、やはりまだ机上の空論というか、実践主義にかけているような気がします。

 挑戦するか逃亡するか。やるかやらないか。どちらかが良くてどちらかが悪いということではありません。何かの欲求を満たそうと何かに挑戦するとき、常に別の何かから逃げているからです。勉強していたら創作活動から逃げる、というように。だから欲求は優先順位を考えて、順番にバランスよく満たしていくことが必要になるわけですが、挑むか逃げるかの判断をするときに基準となるものを決めておくと、「何もしない」状態から脱することができます。

 挑戦も逃亡もつらいです。どっちにしたってつらい。挑戦すれば面白いものがあるかもしれない。逃亡すれば楽、と言ってきましたが、逃亡についてはこの表現は的を射ていませんでした。

 逃げれば「傷つかない」のです。挑戦すれば傷つきます。

 ただ、逃げて「傷つかない」のはその時だけです。やらなければ、やらなかった時間が蓄積されて長期的にみると、それが一番傷つきます。

 すでに私の高校生活は多くの時間が失われていますが、それを思うととても悔しいです。たった一度しかない青春、そのなかで立った3年しかない高校生活の時間の中で、自分のものにできなかったものがある。そう思うと、後悔します。

 しかし、「何もやらない」状態から「何かをやる」状態に映るのはとても難しいです。やればいいんですよ。ただやって成功して喜んだ経験が私には思い出せません。

 だから、挑戦への意欲を根本で支える私の欲求は、もう時間を無駄にして振り返った時に死ぬほど傷つくようなことを避けたい、平たく言えばもう後悔したくない、というものです。

 もう私はそんなことで傷つきたくありません。

 挑戦して、つらいことを経験して、強くなりたい。強くなれば、人にやさしく、心豊かに生きることができる。

 「人に優しく、心豊かに」は、久々に私の気持ちにはまった言葉です。京アニ火災関連のニュースで知りました。私の「人生で面白いものを求める欲求」とは、この言葉の通りではないかと思いました。

 そんな風に生きるためにも、何もやらない、で死ぬほど後悔するのは、もうやめようと思いました。今日は、その衝動が体を実践的な行動に突き動かしました。