ぼくらの一橋戦争

私大付属校から外部受験をしようとする高校2年生のありのままの記録

20.11.30(月) 文系と理系の教科の性質の違い(?)

 今日、倫理はどんな要素に分けて暗記していけばいいのか、ということを考えました。暗記というわけではないのですが、例えば現代文の小説では「人物」に焦点を当て、その人物像を「性格「容姿」「背景」から読み取ります。数学なら明確に条件が与えられていて、答えを導くために解放や解を1つに導くわけです。英語なら指示語、でしょうかね。とにかく、そんな風に教科ごとにとらえるべき構造の枠のようなものがあると思っていて、その倫理バージョンを考えていました。

 いつか何かに書いたのですが、歴史とは「変化の文脈」であるということです。では、その変化の構造をどうとらえるのか。その方法は、「変化を加えた人」「変化した物(制度、影響を受けた人など)」「それが変化した時間・場所」を捉える、というものではないのでしょうか。

 文系科目は総じて抽象的な意味で「物語」であると思います。前後関係、因果関係があってその結果がある。常に全ては変化を続ける文脈の中にある。変化がなければ物語はありません。「物語を持つものを研究対象にする」。それが文系科目の特徴だと思いました。

 対して理系科目とは、科学史などもあるかもしれませんが、基本的に文脈を持たないのではないかと思いました。物理の法則も科学の法則も数学も、常に不変の答えを導く営みのように思えるのです。もちろん科学であるから反証可能性を持ち、日々新しく更新されていくわけですが、それは法則と法則の発生に順序や因果関係があるということではありません。法則はもともとこの世界に存在したはずで、発見されたのが後か先かというだけです。人類がどのように科学技術を利用してきたか、というような話なら文脈を持ちますが、そうではなく化学反応や物理法則から求める結果それぞれは時間を超えて不変的なものではないでしょうか。反証可能性が十分にあるって?では、”反証されるまでは”不変的、絶対的と思われるもの、と言えばいいでしょうか。これは、文系が「(歴史、その個人の表現の)世界の順序立てられた変化」を研究対象とすることと対照的ではないでしょうか。反証されてしまえば、その科学は後の科学法則に影響を与えないわけです。反証されなければ、その法則は永遠に変わりません。よって、科学法則の世界に法則そのものの変化が文脈として受け継がれるということは起こりえません。

 もちろん法則を見つけ出そう、利用しようというところには前後関係、いわば「物語性」があると思います。理系の学問が文脈を持たないものを追うからと言ってそれを見下すわけではありません。ただ、法則そのものが新たに「誕生」するということはなく、あくまで「発見」するもののようなものです。理系の学問の性格は、これらの思索を通して、私は「存在そのものを問題にする」ところにあると思います。その答えが「存在するか否か」「存在すると言えるか否か」。ある意味では理系のほうが根源的で真理に近く、文系の方が実践的で現実味のある、そんなような気がしてきます。

 変化、順序などを要素として「文脈」を問われるのが「文系」。時間軸をもつ。

 不変、0か1かあるかないか「存在」を問われるのか「理系」。時間軸をもたない。

 ただここまで書いてきて、本当にそうか、これは文系にも理系にも言えることではないか、などと自分でも疑問がわいてきました。文系理系で性質が違う、というのはもう古い考えなのでしょうかね。そんな気がしてきました。思考過程に必要な力は両方一緒でしょ、もう。文理っていうグループ分けじゃあ、なんかなあ。やっぱ国立の入試がいいよ。きっとそうだ。うん。