ぼくらの一橋戦争

私大付属校から外部受験をしようとする高校2年生のありのままの記録

20.11.20(金) 欲求とか感情とか

 昨日は冗長になりすぎてしまったので今日は簡潔にまとめます。

 リビングで作業していたところ、ついつらいなあ、とこぼしました。すると、背後からそれに同意する声が聞こえました。イヤホンで音楽を聴いていたのではっきりとは聞き取れませんでしたが、最初の一言は確かに「つらいよな」でした。

 人生なんてつらいことばかりです。深夜、私がいなければ一人でビール缶を開けて夜食を摂っている背中を想像するに、人生の輝きやら美しさは大したものではないような気がします。生きていてもしょうがない。生きているか死んでいるかは大した問題ではない。努力してもしなくても、ただ流れていくのみ。そんな生きること自体を根本から引っこ抜いて評しきってしまう虚無感を、ただただ、感じていました。

 叶わない恋愛感情も自己実現も誰かからの嫌がらせも、全部がそんな感覚のもとに消えていくような気がします。この世界で全力を尽くして生きるのなら、そうして感覚を麻痺させて悔しさを消していくことは決して望ましいことではないでしょう。しかし、私にはそんなことはどうでもよくて、その生きること自体の不思議さとかおかしさということの方が今日はよっぽど私の体の芯まで浸ることのできる心でした。

 勉強なんてしてもしなくても、練習なんてしてもしなくても、全てはいつか一瞬で消え去ります。当たり前のことですが、それを知っていると、何も行動できなくなってしまいます。今までの私はそうでした。自分の意識以外の全ては、他者もこの世界の歴史も自分の見たことがないものものも全ては、存在は証明できないことに私が気づいたのは、小学5年の時です。それ以来、自暴自棄ともつかず恍惚ともつかず、流されるままに勉強やら恋やらをしてきました。

 ただ、今日の感覚は今までとは異なるものでした。一言で言えば、「意味のない」から「むなしい」に変わったのです。意味のない、ただ無色の世界観だという観念が、意識はあるから生きている間は意味はあるが大きな問題ではない、色はあるようだがその色には何か生きることの真の応えることはない、というような、ある意味実践的な世界観になったように思います。生きていても仕方がないことに気づいても、結局自分は生き続けている。その結果、この世界で生きることにはやはり何かしらの理由があると無意識のうちに感じるようになったのでしょう。だから、私はこの世界に色を感じるようになりました。中学や高校で様々な体験をして、甘い苦しい思いをして、けれども生きている。それでも、と言って生きている。そうしているうちに、きっと自分が感知するこの世界には色があるという意識が芽生え、その色の大義名分を探し始めたのかもしれません。人生はただのゲームだから楽しみたい。私はここにいると叫びたい。そういうこの世界が在ることを受け入れてこの世界で懸命に生きる希望をもって、私は一つ一つの挑戦をしてきました。これは今になって気づいたことです。

 何事にもやる気が出ない。日々動き回る自分の感情が手におえず、もやもやと何にもくっつかない。そんな今の状況で、久々にこれだ、という答えに落ち着いたわけです。これが正解ではないと思う日が来るかもしれませんが、今の私には、そして打ちのめされることを忘れた時の私には、この感覚の元で生きることが一番適した解だと思うのです。