ぼくらの一橋戦争

私大付属校から外部受験をしようとする高校2年生のありのままの記録

20.12.09(水) 個人的な強さと社会的な強さ

 私は社会で生きることを選びたいです。自分の欲求に反することがあります。けれども、自分の欲求と社会からの要求の妥協点のような地図が欲しいです。言い換えればそれは闇を生きる光です。その光を道しるべに、社会的な強さを獲得していけばいいのだと思います。個人的な強さは社会的な強さを獲得するためにあります。新しく社会的な強さを獲得することで、自分の欲求をより満たすことができます。自分の可能性が広がります。不本意でも社会的な強さを獲得することに挑戦すればより「人に優しく、心豊かに」なれるかもしれません。

 その過程では嘘をつくことも必要ではないでしょうか。自分にないものを自覚するために。自分がどう変わればいいかを考える材料として、現在地を確認するために。個人の欲求に反するがここは社会的な欲求を満たそうと思います。何もしないよりは嘘をついた方がいいです。

 とにかく、受験勉強をして後悔することはなさそうだから、できるところまでやってみます。

 「妄想力」も無くさないように。

20.12.08(火) 言葉の力

 「強さ」を引き出すものは、言霊ではないでしょうか(本気で言ってる)。言葉には人間社会で人間をその言葉の意味に近づける力がある。私はそう思います。

 リンゴとか水とかパンとかの「言霊実験」は私は信用しません。そうしたら「神」が存在することになります。まあ、私の意識が存在しているのだから神はいるのではないかと思っていますが、それはあくまで宇宙が誕生した時の話で、社会というものの存在はまったく考えずに、私個人で私の意識の存在の超根本的理由を考えた時に、神はいるよなあと思うだけですので、社会というものの存在を認めて生きている日常において神の存在を想定することはありません。

 

  社会で生きるときに必要なのは「自分の世界を作る」ことだと思いました。他人からの評価をそのままうのみにしたり、自分の周りで起きる事柄からその雰囲気のそのままに影響されたり。そうすると、ネガティブなものが連続する環境では、本当につらいです。

 自分の望む言葉で自分の世界を作ればいい。確かに考えが凝り固まってしまう危険性はありますが、そもそも私たちは自分の世界で生きているのです。むしろ考えが偏らないようにするために必要なのは、「自分の世界を作り続けること」です。この世界で自分が想定していない範囲で起きることに、自分の解釈をつけることで、自分の世界を広げることができます。人に言われた言葉通りに自分の世界を作ると、とても苦しいです。子供は自分の言われた言葉通りに自分の世界を作ってしまいますから、やはり子供時代に浴びた言葉というのは「自分の世界」そのものになってしまいます。

 逆に、他人の言葉を受け入れるな、ということでもありません。他人の言葉からどうやって自分の言葉を作るか、そこに(葛藤とまではいかなくても)今まで自分が持っていなかった思考を獲得しようという意識は必ずあるべきです。

 私は今はとにかく同日模試までに全力で勉強しなくてはならない状況にあるのですが、それでも過去の他人からの言葉が今の私にも時間を超えて突き刺さっています。それを完全に振り払うことはできないかもしれません。しかし、それにとらわれ続けられたくはありません。そのために、希望の言葉をここで作っています。

 個人の性格については「言霊効果」はあると思います。その人の身の回りで起きる事象よりも先にその人が生み出した言葉が存在して、その意識が事実認識に影響を与えていると思います。そういうことを考えているからそういうものが目に付く、ということです。

 ですから私も、短期的な目標を近づける言葉を話さなくてはなりません。長期的な目標ですと挫折してしまいますから。今日を生きる言葉を自分で説明して、自分の世界を求める方へ広げていこうと思います。

20.12.07(月) 「やらない」から「やる」へ

 昨日寝る前に、こんなことを考えていました。(読み飛ばしてください)

 

 これまでつらいことを味わった人は、まだ、もっと、つらいことを味わうことができます。求めるものへ挑戦して、その過程で味わった苦しみは、必ず深みのある面白さになる。そこへの文脈を作らなくてはなりません。「面白い」と「つらい」。両方を自分の人生のキャパシティーの限界まで味わえられたら、きっと将来面白い大人になれる。最高の高校生活が手に入る。そう信じて、前衛的につらさを受け入れて面白さを受け入れて理想を目指そうと思います。その過程で物語を作り続けることで、面白いものを手に入れることができると思いたいです。そんな経験、思い出せませんが。

 

 確かにそんな気はしますが、やはりまだ机上の空論というか、実践主義にかけているような気がします。

 挑戦するか逃亡するか。やるかやらないか。どちらかが良くてどちらかが悪いということではありません。何かの欲求を満たそうと何かに挑戦するとき、常に別の何かから逃げているからです。勉強していたら創作活動から逃げる、というように。だから欲求は優先順位を考えて、順番にバランスよく満たしていくことが必要になるわけですが、挑むか逃げるかの判断をするときに基準となるものを決めておくと、「何もしない」状態から脱することができます。

 挑戦も逃亡もつらいです。どっちにしたってつらい。挑戦すれば面白いものがあるかもしれない。逃亡すれば楽、と言ってきましたが、逃亡についてはこの表現は的を射ていませんでした。

 逃げれば「傷つかない」のです。挑戦すれば傷つきます。

 ただ、逃げて「傷つかない」のはその時だけです。やらなければ、やらなかった時間が蓄積されて長期的にみると、それが一番傷つきます。

 すでに私の高校生活は多くの時間が失われていますが、それを思うととても悔しいです。たった一度しかない青春、そのなかで立った3年しかない高校生活の時間の中で、自分のものにできなかったものがある。そう思うと、後悔します。

 しかし、「何もやらない」状態から「何かをやる」状態に映るのはとても難しいです。やればいいんですよ。ただやって成功して喜んだ経験が私には思い出せません。

 だから、挑戦への意欲を根本で支える私の欲求は、もう時間を無駄にして振り返った時に死ぬほど傷つくようなことを避けたい、平たく言えばもう後悔したくない、というものです。

 もう私はそんなことで傷つきたくありません。

 挑戦して、つらいことを経験して、強くなりたい。強くなれば、人にやさしく、心豊かに生きることができる。

 「人に優しく、心豊かに」は、久々に私の気持ちにはまった言葉です。京アニ火災関連のニュースで知りました。私の「人生で面白いものを求める欲求」とは、この言葉の通りではないかと思いました。

 そんな風に生きるためにも、何もやらない、で死ぬほど後悔するのは、もうやめようと思いました。今日は、その衝動が体を実践的な行動に突き動かしました。

20.12.06(日) 止まらないこと

 ただただ、はしゃぎたいという欲求です。それがすべての原動力のような気がします。

 青春で一番大切なことは、止まらないことです。進み続けることです。今まで私は何もせずに、何もできずに、周囲にただ置いてけぼりにされていました。もう何もしないで呆然と時間がすぎるのを待つのは嫌になりました。死んだらすべてが終わる。そう気づいたときに、それが画期的な発見だと思ってしまった小学校の頃以来、私はずっと止まっていたような気がします。少し進んだのは、高校受験の時でしょうか。本当にそれぐらいしか、進もうとした時がないのです。

 過去は絶対です。変えられません。ただ、その文脈のなかで私が経験に影響される「感覚」はリセットすることができます。自殺しなくてもこの「感覚」のリセットはできます。別にあの人に認めてもらうことが最終目標ではありません。自分の欲求をただ見たしたいだけなのです。私は私の欲求を満たすために、自分をリセットしたいのです。少しずつ、今の自分をある程度受け入れられるようになるまで、止まることなく進み続けたい。その思いが、今の自分を受け入れたくないという感情的で私の根源的な感覚を、今日は上回っています。

 もう、毎日ドラマか映画かアニメか1話は必ず見るようにしようかと思うくらい、はっとさせられた1日でした。

 過去や現実に悩みながら進み続けたい。現実の社会を生きる術を探しながら、エネルギッシュに生きていたい。ようやく、というか、久々にそう思いました。

20.12.05(土) 「始める気」が起きないときは

 結局何かする気になれない、なんて日にこれを読み返せば、もしかしたら元気が出てくるかもしれません。やる気は始めれば自然と出てきますから、問題は「始める気」にいつなるか、です。こうやって理屈をこねるより
さっさと 「始める」経験を積んだ方がいいのですが、その経験を長く積むために私が気づいた方法論を書き留めておきます。一応断っておきますが、生きる前提で話を進めています。死ぬまでは生きることだけを考えて、死んだ後のことは知らん、というスタンスです。

 ①まずはある程度は心身を整えること。種々の運動と瞑想でしょうか。私は「毎日やること」をメモ帳にかいて、最近は毎日のように見返すようにしています。 
 
 ②次に、面白いものに触れ続けること。面白いと今すぐ思えるものに毎日触れるようにしています。勉強だけやっているとつまらないし、大変というだけになってしまうので、楽しめる趣味があるといいと思いました。何か「面白い」と思えるものに日頃から触れていれば、自分も面白いものを作ってやろうという気になれるのではないでしょうか。

 ③そして、その欲求を満たすために将来的なビジョンをもつことが多いですが、最終目標は意識しないことが重要です。できるだけ短い、すぐに手に届く目標を設定すると、「始める気」がずっと起きやすくなります。例えば、まず机に向かってみようか、だったり、今日一日は頑張ろう、だったり。志望校合格なんて気の遠いことを意識していたら、不可能であろうという推測に打ち負かされてしまいます。合格するにも、合格することは意識しないほうがいいと思うのです。変わりたい、新しい面白いものを知りたいという欲求は短いスパンで満たす。これ大切。
 
 ④また、今やっていることは未来の前倒しであるという意識をもつことでもそれらの欲求を満たせます。締め切りだけを考えてやっているとどうしても体が緊張してしまいます。そうなるとその仕事を楽しむ余裕がなくなってしまいます。それは避けたいので、今やっている仕事は未来にやることの仕事の前倒しである、という意識を持つようにしたいです。少し先の未来のことを考えることはイコール今を生きることです。常に変化のある人生で今を生きることは、変わり続けることでもあります。変わり続けることは個人の感覚が今までの人生との経験知との差異に触れ続けるということですから、つらいけれども面白いです。
 
 面白そうな物語は世の中にいくらでもあります。けれども、私はそれに負けないリアルの「自分の物語」を作りたい。それは私にしか感じられない、私の言葉でも主体的に言い表せない「感覚」を得たいからです。その感覚こそ、私がこれからの社会で生きる唯一の武器である「私の人生」に磨きをかける方法なのかもしれません。そして物語には欲求の成就、美しさ求めたい。自分を「努力できる人」と思いこめば、社会で成果を残せるし、その過程で得た自分の物語は必ず金になるのではないでしょうか。自分の人生経験を豊富にさせることは必ず創作に通じます。だから、最も重要な価値観は「変わり続けること」です。別にいい大学に行っていい教育を受けたいという欲求がメインで勉強しているわけではありません(表現は今すぐできるが、もっともっと深いことを言いたい)。受験戦争を体験して、人生や創作の糧にするためということを目的のメインに据えています。私はまだ知らない人生を経験して、悩んで、それを表現したいのです。これと人から尊敬されたいという欲求もありますが、2つとも手を伸ばしてすぐに届く目標ではありません。だから、前倒しでやっているんだという意識をもって今達成できることをやっていけばいいんです。過去は、環境はすぐにリセットできないのですから。
 どうでもいいと感じながらだらだらテレビを見ているのではなくて、私が変わり続けて、様々な言葉にならない感覚を獲得したい。私はそう思っています。だから決して人生100%楽しいことで満たされているような状態を目指しているわけではありません。自分の感覚や感情や思想に反するものに出会う機会もあるでしょう。私は常に、自分の中では真剣に悩んで生きていたいと思っています。その悩みを人に表明する機会はほとんどありませんが、自分の心の内では常に社会の中でどう生きるのかということを考えたいです。逆にそれさえできるのなら、何に身を投じてもいいと思っています。もちろん将来的には金になるものにつなげたいのですが笑。「金」というのも、社会で生きる上で大きな悩みになりそうですね。
 悩み続ける、変わり続ける、できるだけ立ち止まらない。つらいけれども、やってみればテイクイットイージーに済むことが意外とあります。その経験を積んでいけば、自然に何かを始める気になるでしょうし、まだ味わったことのない感覚や面白さや苦痛を、理解して表現できるようになります。

20.12.04(金) もう一つの欲求

  以前「面白いもの」が私の欲求を満たす唯一のもの、と書いたと思いますが、もう一つありました。死にたいという欲求です。人生うまくいきません。これまでの学校生活で自分の思い通りになったことは何でしょうか。1年の時、時間は私のものではありませんでした。その時間を私は獲得しても、結局私は時間を、自分の人生をほしいままにすることができませんでした。

 私の意志が弱いからかもしれません。けれども、その原因は私は私の主体的な要因ではなく、全て環境の要因であると思っています。文字通り、環境のせいだと思っているのです。

 意志が弱いのは性格です。社会的な意識が薄いのも、努力の経験ができたかも、成功経験の有無も、全ては環境によって根本的に左右されます。全ては環境によって引き起こされるのです。

 しかし、環境を憎んでいてもしょうがありません。あくまでロジックとしては環境のせいだとしても、そのうえでどう生きるかを輪t士たちは選択しなければなりません。環境は平等ではありません。視野を広げると不条理だって蔓延っているように感じます。それでも、私たちはその環境の悪い部分に呑まれず、良い部分を利用して、自分の欲求を満たしていかなければなりません。

 本当にそうでしょうか。死ねば終わるのではないのですか。

 私は特に宗教を信仰していないので、死後の世界の具体的なイメージを持っていません。死ねば世界は終わると思っています。だから私は、死にたいと思うことがあります。

 最近は特にそうです。テストがあったからというのも大きいですが、親に「無理だ」と言われて以来、死ねばいいんだと思って何も手につかないような、だるさというか無力感に閉じ込められました。その時間勉強していれば良かった、と思うのですが全ては環境のせいですから、別にそれが悪いことだったとは思いません。全ては環境のせいですから。

 ではなぜ死にたいと思うかというと、その原因こそが先ほどの「環境」なのです。自分が生まれた環境。自分が育った環境。それらの認めたくない過去を消すために私は死にたいと思うのです。過去をリセットすれば、満足できる。面白いものではありません。しかし、過去をリセットしたい、という欲求は私の心理の大きな部分を占めています。

 しかし矛盾があります。私は現に生きているからです。「死にたい」と言っている時点で矛盾があります。死ぬのが怖いのです。この世に未練があるのです。この、相反する欲求も満たしたい。そうなると、自殺を思いとどまるのが今の私です。

 では、「必要な欲求をバランスよく満たす」の原則に当てはめて、私はどうするべきか。生きながら過去をリセットすればいいのではないでしょうか。

 これまでの過去の過ちや不遇が関係なくなる未来を作るために、今、それにたることをすればいいのです。こうすれば、「死にたい(リセットしたい)という欲求」と「面白いものを求める(未練たらたらな)欲求」の2つの必要な欲求を理論上は満たすことができます。

 

 生きている間はずっと、小さな成功や努力を繰り返さなければなりません。いい会社に就職したり言い合い額に受かれば万事オッケーというものではないのではないでしょうか。日々取り組むことが次の日の取り組みにつながって、いづれ、自分の過去とほとんど似ていない環境が手に入っているかもしれません。この「リセットしたい」という欲求は、もっと平たく言えば「変わりたいという欲求」なのです。

 頑張れば、いつかはこれまでの過去をリセットできる。名残惜しさはありますが、名残惜しいものはもったまま、死にたいと思う原因をリセットしていくようにすれば、あとは「面白いものへの欲求」を満たすだけ、それに満たされるだけになるのではないでしょうか。

 過去は変えられない。それでも―、生きながらリセットはできる。これに気づけたから、今日からはきっと大丈夫…と思いたいです。

 

 ただ一番は死ぬか生きるかなんて考えないことだと思うんですよ。死ぬか生きるかなんて考えないで、苦しいことに生きる前提で向き合っていった方がいいんでしょうよ。先に書いた通り、死にたいって言ってる時点では生きているのですから、生きてる限りは生きる前提で考えるべきなのでしょうね。死ねばすべて終わるのですから。何でこの世界が在るのかわからないけど、この私の精神世界は、誰のものかは知らないが、確かに、絶対にあるのですから。

 

 人生をリセットしよう!生きる前提で考えよう!

20.12.03(木) 暗記≒理解=説明=創造

 やっぱり学校生活の記録は別のものに記録することにします。生々しく残そうとすると自他のプライバシーを公開してしまいそうなので。

 

 果たして、暗記に意味があるのでしょうか。なんだか意味はないような気がします。意味のない暗記をしている人が悪いのかもしれませんが、暗記の質を問えないテストもなかなか微妙です。

 ただ、特に勉強は(なんだって勉強ですが)やればできるようになります。問題にするべきは「やるかやらないか」です。欲求に優先順位をつけようとしたときに、何をやるかやらないかを選択しなくてはなりません。この時、どちらを選ぶかです。

 別に勉強する事を選ぶのが正しいとは思いません。勉強するを選ぶと同時に、別の道を諦めているからです。

 ただ、私にとって勉強とは世界の理解であり、再現であり、創造なのです。

 これについては説明が必要かもしれませんが、今日までに書いた理論で簡単にこのつながりを言い表すことができます。

 勉強とはこの世界にあるものを理解することです。では理解するとは何かというと、自分の言葉でそれを言い表せられるようになるということです。自分の言葉でその意味を言い表せるようになって初めて、言葉によって成り立つ構造的な自分の精神世界に、その事象を迎え入れることができます。(ソシュールの言語論的なイメージをお願いします。)

 だから、理解するということは、同時にすでにある学んでいる対象の存在を、自分の中で言葉で再現することと同じことなのです。

 さらに、例えば楽器の練習などでは、その理解した言葉と自分の現状を言い表した言葉を見つけて、その間の橋を渡す役割を持つ言葉(=解決策)を作れば、体でも理解することができます。

 帰ると勉強できない。テレビを見てしまう。しかし部屋で勉強したい。この場合の解決策は、家に帰ってから部屋の椅子に30分拘束する、なんていいんじゃないでしょうか。

 そして、そのような理解と再現は「創造」でもあります。創造とは今までに自分の人生で得たものを組み合わせて新しいものを生み出すことを言います。この創造という言葉を広い意味でとらえてほしいのですが、勉強の対象を自分に説明するために、既知の言葉を組み合わせて新しい言葉、文章を作るわけです。だから、これは創造だということができるのはないでしょうか。

 あくまでテストで求められているのは「理解ができているか」ですし、「理解」が暗記の「特急券」になっていることはおそらく知られていることでしょう。最終的には覚えていればいいのですが、そのゴールより先までできるようにしておく、つまり、ただ暗記するだけでなく、できるだけ何となく感覚として説明できるようにしておくと、余裕をもって暗記できるでしょう。

 もっとも、暗記してその言葉をはっきりと自分の世界に取り入れていなければ理解も何もないのだから、根性で暗記すればいいだけなのかもしれませんけど。でも理解も一緒にするようにしましょうよ。そうした方がより暗記が長く続きますし。たぶん。

 でも、効率を考えて丸暗記した方がいいことは、本質とかけ離れても割り切って暗記しちゃいますよ私は。

 

 結論、勉強や暗記はクリエイティブば仕事でない感じがしますが、私は勉強で人に認められたいという欲求と新しいことを知り続けて創作活動に役立てたい、と思うので勉強頑張ります。